森薗政崇×尾崎社長 対談インタビュー

森薗政崇×尾崎社長 対談インタビュー

先日1月28日におこなわれた2023年全日本卓球選手権大会 男子ダブルス。 熱戦の末、見事優勝されたボブソン所属の森薗政崇選手が優勝報告に来てくれました。 そこで今回は急遽 弊社尾崎社長との対談が実現。 話題は近況報告から始まり、インタビュアーからの質問も交えつつ、お互いの会社経営についての熱い話も。 和やかな雰囲気の中、終始それぞれの卓球愛が溢れた対談となりました。 こちらのblogでは怪我から復帰までの道のりと、お二人の経営観を中心にお送りいたします。 とにかく早く復帰したかったし、出来ると思ってました(森薗) 尾崎社長(以下、尾崎):まずは全日本男子ダブルス優勝おめでとうございます。 森薗政崇(以下、森薗):ありがとうございます!おかげさまで優勝することができました。 尾崎:今回怪我もあって心配してたんですけど、大会まではどんな感じで動いてたんですか? 森薗:手術をしたのが10/31で、それから約2か月半で手術をして回復をして、試合をしないといけない状態だったんです。リハビリの先生には「8週間は本気の動きはしちゃダメ」って言われてて。でも手術の前にリハビリの先生と執刀医の方に「なるべく早く復帰したい」っていうのを伝えて、全身麻酔ではなくブロック注射と局所麻酔でなるべく身体に負担が少ない方法をとりました。 尾崎:手術は痛くなかった? 森薗:麻酔を打つときは本当に痛かったです。術後は麻酔効いてる間は「全然余裕じゃん」と思ってたんですけど、麻酔が切れると無茶苦茶痛くて。その夜はアイシングしながら過ごしました。 尾崎:具体的にどんな怪我だったの? 森薗:前シーズン2月の試合なんですけど、その日はすごく動けて調子もよくて。途中でバンッと強く床を踏んだときに違和感があったんですが、そこから痛みが続くようになったんです。いわゆる「ネズミ」って言われるんですけど、関節の間に欠けた骨が挟まるっていう状態なんですよ。僕の場合は、膝近辺の欠けた骨が左足首まで降りて関節に挟まっちゃって、そのまま靭帯に癒着してしまったんです。日常生活だと階段降りるときに若干痛いくらいなんですけど、卓球だと足を蹴って戻ってくる動きがすごく痛いのと怖いのとで、満足いくプレイが出来ないので取ってしまおうって感じでした。 尾崎:それは他の卓球選手にも多い? 森薗:執刀医の人に聞いたらサッカーやバレリーナなど足首を伸ばす動きの人に多いらしくて、卓球選手では初めて診たと言われました。僕はフォアを打つときに足をグッと伸ばすようにして打つんですけど、その動きが負担だったみたいです。 尾崎:張本選手とは怪我について話したりした? 森薗:しましたしました。でもペアだしあんまり心配もかけたくなくて。多分結局「手術する」って伝えてなかったと思うんですよね。復帰するっていう強い意志もあったので人知れず(手術を)やって、事後報告してって感じでした。 尾崎:なるほど。手術から全日本まではかなり短い期間だったけど、感覚として調子はどのくらいまで戻ってたのかな。 森薗:ギリギリでしたけど、全日本直前に試合したときには「そういえば手術したな」と思えるくらいには戻ってましたね。 尾崎:一昨年はシングルスで準優勝で、今回男子ダブルスは8年ぶりだったのかな?8年って単純に結構、、、長いよね(笑)。 森薗:長かったです(笑)。そう考えると(全日本男子)ダブルスの優勝は大学1年の時が最後なんですよ。混合ダブルスに集中して4年間出なかった時期もありましたから。でもこれでボブソン所属として日本一を取ることが出来て良かったです(苦笑)。 尾崎:本当に有難いよね。所属して4年間でここまで結果出してもらって。 https://twitter.com/MasaMezase/status/1619272909905883136 苦難の末に優勝を勝ち取った森薗・張本ペア(森薗選手のTwitterより) 当たり前のことを当たり前にやるために手を抜かない(森薗) ーー怪我を乗り越えた先に見事掴んだ勝利だったんですね。ここからは質問も交えつつ、お話を聞いていければと思います。まずはいつものプレーで心がけてることがあれば教えてください。 森薗:めちゃくちゃシンプルなんですけど、手を抜かないということですね。全日本決勝でも、地区大会1回戦でも、全部同じテンションで試合することを心がけています。 ーーいろんな試合がある中で「この試合は体力温存しよう」というのはない? 森薗:ありますあります。何なら棄権して出ないとかもあるんで。それ自体は戦略の一つなので全然アリなんですけど、(試合するときは)どの試合もテンションを同じにしておかないと、いつ自分の状態が良くて勝ち上がれるのかが分からなくなるんです。Tリーグだと、シーズン通しての試合で勝ったり負けたりする中で、モチベーションを保つのがすごく難しいんですよ。負けが込むと落ち込んだり、「もう出たくない」ってなる選手もいますし。そういう風にならないようにいつもマックスで普段通りが出来るようにってのは心がけてます。 ーー確かにいつも熱量の高いプレーをされていますもんね。森薗さんといえば気迫のある熱いプレーが特徴的ですが、その熱量は「ファンに応える」というようなものもあったりするんでしょうか? 森薗:そうですね。やっぱりドイツの経験が大きくて。中学1年生の時から向こうのリーグに半年ずつ参戦させてもらってたんですが、1部から13部まであるんですよ。僕は4部からのスタートだったんですが、4部って昔上手かった60代のおじさんとかも全然いるんです。その中で混じって試合するんですけど、当然観客は一人もいなくて。しかも同世代の子達はそのとき国際大会とか出てるんですよね。それを映像で見つつ、一方で僕はビール片手間に飲みながらやってるようなおじさん達と試合するっていう(笑)。 尾崎:それもまたすごいね。 森薗:もうすっごい悔しかったんです。人に見られないってこんなに苦しいことなんだなと。初めて1部に上がって、沢山の人に自分を見てもらえたときはすごく嬉しかったですね。そこから人に見られるような試合をするのが自分のコンセプトにもなっています。 大事なのは自然に活躍できる場をつくること(尾崎) ーー少し話題は変わりますが、尾崎社長の方針でボブソンのデニムのサイズ展開もなるべく広く、沢山の人に届けられるようになっていますよね。スポーツとアパレルの違いはあれど、森薗選手の「沢山の人に見てもらう」コンセプトは、尾崎社長の経営にも何か繋がっているような気がしますね。 森薗:僕も気になります。実際、卓球とアパレルの経営で通ずる部分っていうのは多いんでしょうか? 尾崎:う〜ん。まあ組織っていうものは、例えば会社だろうとスポーツの団体でも、基本的な部分で大事なのは達成感であったり楽しさであったりで、そういうものがないと続いていかない。一度しかない人生だから自分のやりたいことをやっていくべきだし、会社としても、なるべくそういう場を作ってあげたいと思っています。スポーツ選手も、個人でもあるけどある意味で団体戦でもありますよね。そういう部分で会社と同じようなものだと思っていて。結果が中々出ないこともあるし、景気やトレンドの変化で突然売れ始めるようなこともある。今の時代はそんな簡単に売れたりはしないから、ひとつひとつクオリティを積み重ねていくしかないんです。「手を抜かない」というのは私達にとっても大事なことですね。 森薗:個人であり団体戦っていうのはめちゃくちゃ分かりますね。リーグとかやってるとまさにそうで。会社のように個々で頑張りつつ、それが集合して力になるというか。 尾崎:組織を運営する人間としては、働く人達がそれぞれ自然に力を出せるような環境づくりが大事だと思います。個々にある程度任せて、それぞれが自然な形で活躍できるのならそれが一番良いですよね。そのことを忘れてしまうと、会社がたとえ大きくなっても誰も幸せにならない。一人がもの凄く儲けても仕方ないですから。 森薗:なんか、、、監督みたいっすね、、、 (一同笑) 森薗:いやでも本当に。監督って僕ら選手が活躍できるような環境作りとか、マネジメントの要素がかなり大きいんですよ。今の話聞いてると、尾崎さんそのうちチームの監督とかやりそうだなって。 数年後、普通にジャージ着てベンチに座ってるかもしれないですよ(笑)。 尾崎:それも楽しいだろうね(笑)。 ーー社長は従業員個々の成長機会をつくることを大事にされてますよね。社内でも週に必ず数時間は他分野の勉強会の時間を取っています。森薗さんへのサポートもそうですが、その辺りの人への投資についてはどう考えられていますか? 尾崎:まあ投資というか、その人が成長することが一番だと思っていますから。勉強の機会もそれがあること自体が大事だと思いますし、これだけ時代が変わっている中ですからやっぱり自分達も学んでいかないといけません。それは専門的なことだったりもっと包括的なことかもしれませんが、人として成長することが結果的に会社の成長にも繋がっていく。逆に会社を飛び出していったとしても、どこでもやっていけるような技量を身に付けさせることが出来るのなら、会社としてもプラスになると思うんです。 社長業は毎日の積み重ね。あんまり面白くないよ(笑)。(尾崎) ーー森薗選手は国を代表する選手として、尾崎社長は会社の経営者として様々な経験をされてきたと思います。中でもお二人にとってそれぞれ一番苦しかったことがあれば教えてください。 森薗:試合でいうと一昨年の全日本シングルスの逆転負けですね。社長から終わった後にすぐに「今は電話はええから」って労いのLIMEをもらったんです。でもその時は人の声が聞きたくてどうしようもなかったのですぐに電話して。「ダメでした」と伝えたら「今はゆっくり休んだらいい」と気遣って頂きました。あの逆転負けは結構自分の中では衝撃的だったので、印象に残ってますね。 尾崎:う〜ん、私はやっぱり社長になったときかな。社長になってから1〜2年は大変でしたね。それまで社長業はおろか、取締役もやったことなかったのにいきなり社長になって会社のすべてを運営するようになって。本当に失敗を繰り返しながらの10年だったなあとは思います。 森薗:苦しい時期に一番最初に何するとかあります? 尾崎:苦しいときはね、苦しいって考えることができない。それぐらい厳しかったですね。会社が苦しくなると、その月その日とどんどん思考の射程が短くなってしまう。資金繰りとか特にね。余裕が出てくれば、1年後、3年後、10年後のことを考えられるようになる。結局、社長業って先のことを考えるために、如何に今の時点のことを考えることがないような経営をするか、ということなんです。あんまり面白くないですね(笑)。 尾崎:そういう意味でいうと森薗さんは選手でありながら会社(FPC株式会社)も経営されてますよね。選手と経営者両方の目線をお持ちだと思うんですけど、森薗さんが経営について色々考えてることってあります? 森薗:まだ苦しい時期が来てないからかもですけど、今のところすごく楽しいですね。元々一つのことに囚われて視野が狭まってしまうタイプなんですけど、会社を経営することで視野が自然に広がりました。結果的に卓球にも良い影響が出ていて、僕にとってはすごくプラスになっています。組織が大きくなるほど考えることも増えますし、今後大変になってくるんだろうなと思いますね。 ーー逆にお二人が一番嬉しかったこと、テンションが上がったことはなんでしょう? 森薗:なんですかね、、 さっきの会社関連でいえば、ウチは小売業が強いんですけど、単純にモノが沢山売れるとめちゃくちゃ嬉しいですね。特にお客様から感謝の連絡みたいなのを頂くときがあって。ただの通販なのに「発送早かったね」とか「ありがとう」とかメールもらえたりするのは有難いです。人が好きっていうのもあって、選手のときとはまた違う、対面での関わる感じも新鮮で楽しいです。 尾崎:私は、、、、ないかな、、、(笑)。こういう言い方は変かもしれないけど、毎日が淡々と過ぎていくって感じなんです。大きな狂いが無いように調整していて、そこに特別な楽しさや刺激があるかっていうと、そういうわけじゃない。とにかく毎日の積み重ねですよね。営業マンだった頃は大きな仕事を取ってくると「やった!」と思うことはあったけど、社長業はそうではないからね。 森薗:それだけ計算尽くなんでしょうね。自分の考えたことを実現するために必要なものを把握出来ているというか。 尾崎:ファジーな部分も結構多いですよ。ただ曖昧な部分も長くやっていればそれなりに見えてくる部分もあります。ただ、全体像の理想はあるけど、個々の動きや考え方は分からない。だから面白いんだと思うし、それで一応上手くいってると思ってますから。 まだまだ変われるし、もっともっと強くなれると思ってるんですよ(森薗) ーー森薗選手は選手キャリアの間という早い段階で会社を立ち上げられましたよね。大会を開いたりと卓球界への尽力も積極的にされているイメージですが、恩返しのような意味合いもあったりするんですか? 森薗:僕はまだまだ自分が戦うぞという気持ちが強くて、今は尾崎社長のように人に何か与えたりは出来てないと思っています。ただ卓球選手って引退した後に何もないんですよ。メーカーに行くか、コーチになるか、自分で卓球場やるかっていう感じで。勿論どれも素晴らしいお仕事なんですけど、選択肢が限られるのがなんだか寂しいなと思ったんですよね。出来るならこれまで一緒に苦難を共にした仲間達となにかしたいなと。それをするためにはもちろん仕事や金銭的な体力が必要なので、今後も見据えて今の会社をやっています。 ーー森薗さんが意識されてなくとも、新たな場づくりを始めることは卓球界にとってプラスになっていくと思いますよ。 森薗:そうなるといいですよね。やっぱり人が好き、仲間を大切にっていうのが根底にあるんです。本当は日本国民全員に何かしてあげられるならそれが一番良いんですけど(笑)。それは難しいので、なるべく手の届く範囲の人たちと一緒に幸せになっていけたらな、と思っています。 ーー本日は卓球の話題だけでなく、お二人の経営観について熱い話が聞けて嬉しいです。最後に今後の展望について聞かせてください。 森薗:27歳になって、卓球業界だとベテランって呼ばれる年齢になってきたんですけど、自分では全くそんな風に思ってはなくて。これからももっと自分の卓球も変えていくし、もっと強くなっていきたいと思ってます。僕の父も卓球をやってて、60歳で全国大会目指して練習してるんですが、その姿にすごく憧れるんですよ。代表選手としてはあと何年出来るかは分からないですけど、卓球は生涯スポーツとして最後までやり切りたいなと思っています。 尾崎:卓球には色んな形で今後も関わっていきたいです。とはいえ私はジーンズメーカーなので、ジーンズ自体も同じように成長させていければと思っています。卓球とジーンズでは道が違いますけど、両立出来ないことではないと思うし、相乗効果も作っていければと思ってます。これからもこれまで通りモヤモヤしながら経営していくだけですね。 森薗:ジーンズとスポーツってなかなか交わらせるのが難しいことだとは思うんですけど、水と油を上手く混ぜるための作業がこれから待ってるってことですね。 尾崎:両方とも中途半端でなく職人気質のものを作っていこうと考えてるから、尚更難しいところはあるんだけどね。 まだまだこれからだと思うし、森薗さんとも互いに刺激し合えるような関係でいられればと思っています。 森薗:少しでも近づけるように頑張ります!これからも色々勉強させてください。逆に卓球は僕が教えますのでいつでも受けて立ちますよ!(笑)
社長インタビュー【BOBSONの名前の由来】

社長インタビュー【BOBSONの名前の由来】

◆BOBSONの名前の由来は? ボブシー兄弟というアメリカの児童文学が由来だという創業者本人の言葉が雑誌に残っています。 アメリカにあった児童文学の主人公の愛称「ボブ」にちなんでつけられたそうです。 当時「山尾被服工業」として創業し、その後ジーンズを手掛けていくようになりますが、BOBSONはその頃に生み出されたブランドです。 その当時、アメリカに「双子のボブシー兄弟」という人気の児童文学があったそうです。 当時ベトナム戦争真っ只中だったのですが、その物語が愛国心を養うための児童文学だという意図があると聞いて、創業者の尾崎利春は「それならば岡山にもある」と思ったそうです。 「桃太郎伝説だ」と。 その童話をヒントとして、主人公の「Bobbsey」の愛称である「BOB」に、自身子宝に恵まれなかったので、「自分の子供の様に愛したい、育てていきたい」という思いで息子の意味である「SON」を付けたのだということです。 ◆企業理念を教えてください。 Good Life with Bobson 1. 協業をもって、常に創造者であり、先駆者であること。 2. 自主独立であること。 3. 自由と平等の精神によって、善き生き方を追求すること。 企業理念は、どれも「弊社と弊社に係わる方々とともに、こうあり続けたい」という内容であり、また、会社が永続できるには何が必要なのかという内容でもあります。BOBSONの5代目の経営者として私自身が経営を行う上で一番結びつく言葉です。 大企業から中小企業まで全国に沢山ありますが、どんな企業も「売る側と買う側」「働く側と働いてもらう側」において、お互いがビジネスにおいてwin-winになることをしていくことが大事です。また、相手より、こちら側がより多く与えることがさらに大事と考えています。相手より、少しでも多く取ることばかり考えるような、自分本位なビジネススタイルは、悲しいことです。ビジネスを通して、人間として成長できることが大事であり、利の取り合いだけに終始して、人間性をすり減らすようなことでは、善なる生き方にならないと思います。 この「お互いがwin-winになること」そのものが、「協業していくこと」だと思っています。 一人でできることは限られています。 色んな方々と事業をやっていくと時間はかかりますが、池に落とした一つの水滴がやがて波紋の様に広がって、いつか必ず大きなうねりになっていく。 ですから、多くの人と協力することが経営では大切だと考えています。すべてを単にお金に換算することなく、無形な形でも互いに利用しながら、成長していくことです。そのためには、互いに利用価値のあることが不可欠であり、その為には、常に自己投資・研鑽を行っていくことは必須だと考えます。 一方で、多くの方々と協業する中でも、企業人として自己を確立していないと不安定な企業になってしまいます。 自己を理解する為にも、協業の中でも「自己投資により常に創造者であり、先駆者であること」を企業自身に求めてきました。 そして、企業として「どんなことがあってもやっていくんだ」という信念は絶対に必要だと思っています。 相手にもたれかかっていては共存共栄を成り立たちません。 それが二つ目の理念にもある「自主独立であること」に当てはまると考えています。 企業として、中核事業というアンカーを持たない状況で、柔軟性を持たせますと単に周りに流される危険な状況になることがあります。 今は、歴史的転換点であり、これから創造できない未来がやってくるはずですので、常に努力していかないと周りに流されてしまう時代です。 個人の能力が問われる今の様な時代だからこそ、普段からの勉強が大切だと感じています。 時代や場面によっていろんな常識が変わっていくのを最近改めて目の当たりにしました。 その中でも流されないように日々行う「楽しく行える自助努力」こそが三つ目の信念である「自由と平等の精神によって、善き生き方を追求すること」につながると考えています。 ◆今後の展望や目標は? BOBSONは時代時代に応じて変化していきます。 変化は、失敗の積み重ねによってしかできないと考えます。「何回失敗しても、最後に1回成功すれば良いんだ」と思っています。 過去に山のような失敗をしてきており、今後も沢山の失敗をしていくと思いますが、失敗することで、経験を積み重ねることができれば、会社は確実に成長させていけると思っています。
【社長インタビュー】アースカルチャー誕生

【社長インタビュー】アースカルチャー誕生

1969年にボブソンブランドが誕生し、創業からのジーンズ技術を駆使して作られたBOBSONの本格派ライン【アースカルチャー】。 そして、リバイバルであるB-1969-XX-J【岡山産セルビッチデニム】ジーンズ。 先代のアースカルチャーを紐解くことで、最新作のB-1969-XX-J【岡山産セルビッチデニム】ジーンズをより深く知っていただくため、株式会社ボブソンピーチフォート尾崎博志社長にお話をうかがいました。 Q①アースカルチャー誕生のきっかけを教えて下さい。 アースカルチャーは1993年に生まれました。その当時のBOBSONは、会社全体が「高品質と生産性を上げること」を最大の目標としていたんです。そんな流れの中で30〜40代の若手の方から、ジーンズの原点的なものを生み出したいという声が出ました。 高品質つまり均一な完成度で大量生産の物ではなく、生産性の悪いローテクのジーンズを作りたいと。ローテクによりその不均一さを求める場合、作業行程数や設備を含めて原点回帰する必要があり、経営面からすれば本当に採算性の悪い商品だったと思います。 ボブソンの社風として、創業当時から新しいことにチャレンジすることは、大事なことと考えていました。失敗しても採算性を度返ししても、若手たちチームにチャレンジさせるのもありだと判断したようです。結果はどうあれ、それは会社の見えない資産として残ることになるはずと考えていたからです。 今でこそSDGsが一般化していますが、当時から人類の将来への暗いものを感じていたチームメンバーは、商品コンセプトをアースカルチャー「地球文化」としたのでした。アースカチャー「地球文化」の中心コンセプトとし、それまでの会社のやり方でなく、独自の工夫をしました。その一つがこのカタログです。 当時BOBSONには、専門の広告代理店があり、広告宣伝販促に関するアイテムは、すべてその会社を通していたのですが、敢えてすべて独自でカタログを作りました。 常に流行ジーンズを販売していた中で、今のままのBOBSONにはない、アースカルチャーのコンセプトを打ち出すため泥臭いイメージのものをつくりました。 商品紹介というより、「何かを感じてほしい」というコンセプトで作られたものでした。 Q②アースカルチャーの名前の由来を教えて下さい。 1990年代当時の日本は、バブル崩壊により社会不安が広がっていました。それまでの消費文化一辺倒な社会風潮により環境破壊を引き起こされ、社会全体が行き詰まりを感じ、ひいては一部の先進国中心から、地球全体を俯瞰する考えが模索されるようになっていました。それまでの会社方向へのアンチテーゼとなりますが、それが、「アースカルチャー(地球文化)」の名前の由来となっています。 話は少しそれるのですが、当時香川県にある別の企業が「地球文化」という名前の商品を取り扱っておられて、「アースカルチャーの名前をボブソン社で使わせてほしい」と総務の責任者をしていた私自身がお願いに行き、チームの思いを伝え、了解いただいたこともありました。 Q③なぜ今のタイミングでアースカルチャーをリバイバルするのでしょうか? 「今のBOBSON」は、原点回帰をすすめています。大量生産型のBOBSONからもう一度「ものづくり」を見直す中、アースカルチャーのような存在の重要性、必要性を感じています。 仮想空間内でビジネスが完結していく世界になるほど、「自分たちによるものづくりの重要性」を強く感じるようになってきました。ネット情報により、どこでも、なんでも、同じようなものが簡単に作れるようになっていますが、その中でも「長くジーンズを作ってきたBOBSONのものづくり」をしたいという思いを強く感じています。アースカルチャーのような過去にこんな良いものがあって、会社の理念とも合致している商品は少ないと再認識しています。 BOBSONの会社理念では、「協業」をもって「常に創造者であり、先駆者である」ということや、「自主独立である」ことが掲げられています。我々がそうあるためには、自社で作るというクラフトマンシップこそが先駆者の証拠だと考えます。自分たちが持っている過去の資産「アースカルチャー」こそが常に業界の先駆者としてやってきた証拠でもあります。 加えて、「アースカルチャー」は、若手チームメンバーのアドバイス役として、イタリア人のデザイナーであるアドリアーノ・ゴールド・シュミットが加わっています。世界的にも有名な「リプレイ」や「ゴールディ」といった数多くのブランドを手掛けた方です。彼は「人間が自然の一部であるように、ジーンズもそうありたい」という考えも持って全面的にバックアップしてくれました。そういった点で、アースカルチャーはボブソンの中でも、特異な体制の中で生まれたといえます。私は、アースカルチャーは、今後に創り出す商品コンセプトのアンカーとして、会社全体を導ちびくような方向性の商品でもあると考えています。 そういった意味でリバイバルであるB-1969-XX-J【岡山産セルビッチデニム】ジーンズが誕生しました。 Q④B-1969-XX-J【岡山産セルビッチデニム】ジーンズは、どんな方に、どんな風に履いてほしいですか? ジーンズをこよなく愛するかた向けに作っていますので、ジーンズ好きなかたにはもちろん過去に「アースカルチャー」を知っていた方や、履いていた方に、もう一度履いてほしいですね。 リバイバルといっても、まるっきり過去のアースカルチャーと同じではなく、多くの点で変わっています。昔と比較して、「変わっている部分」や「加わったエッセンス」を感じてほしいと思っています。 ご興味がある方にはぜひトライアルしてほしい逸品です。このように、「今も昔も知っていただく」という楽しみ方は、長く続く会社の商品でしかできないことですから。 B-1969-XX-J 【岡山産セルビッチデニム】ジーンズ Straight Selvedge Denim
【社長インタビュー】国際卓球コラボ秘話

【社長インタビュー】国際卓球コラボ秘話

質・量において国内最高の卓球用品専門店「国際卓球」において、業界初のこだわりを詰め込んだBOBSONオリジナルラケットケースを発売中! BOBSONでないと作ることができなかったラケットケースの魅力、製作におけるコンセプトや製作中のエピソードを、株式会社ボブソンピーチフォート尾崎博志社長にうかがいました。 ①国際卓球さんとBOBSONのコラボでオリジナルラケットケースの販売が始まりましたね。こちらの商品の魅力とコンセプトを教えて下さい。 一言でいうと「味のある入魂一品」を作りました。 実は、このラケットケースは、弊社のセルビッチジーンズの生地と同じ生地を使用しているんです。 国際卓球の担当者さんと打ち合わせをする際にも、とにかく「こだわる」と決めました。 BOBSONは歴史に培われた商品づくりを心がけていますが、国際卓球さんに出品させていただく際にどうしても既存製品ラインと比べ高級ラインになるため「セルビッチジーンズ用の生地ではなく、通常の生地もありますが、どうしますか?」とお尋ねしました。 すると国際卓球の担当者さんから、「次から次へと出てくる海外製の大量生産品に大差無いものを作るよりも、長く使用することで味が出る日本製にとことんこだわりましょう!     現在、そういった商品が少ないですから、セルビッチジーンズと同じ生地でのラケットケースを作りましょう!」という前向きな反応をいただきました。 もちろん、生地だけではなく細かいディテールにもこだわっており、純銅のリベットを使用しビンテージ仕様の打ち抜きにしたり、プラステックファスナーでなく、ジーンズ用ファスナーに使用されるハード感のある真鍮製のYKKファスナーを使用しています。縫製も、ジーンズで多用される太糸で縫い目を大きくしております。 一つ一つのラケットケースをジーンズ工程と同じように丁寧に手作りで加工しているため、縫製や洗い・こすり加工等どこをとっても全て一品一品が魅力のある品に仕上げました。 「ジーンズメーカーというBOBSONらしさ」や「専門店の頂点にある国際卓球さんらしさ」のタッグにより、新しいこだわりを創造するにはどうすればいいのか? この為、両社で打合せを半年以上繰り返しながら、多くのサンプルを作成することになりました。 その結果、この「一品のラケットケース」が生まれました。 ②国際卓球さんのサイトを拝見し、卓球用品(ウェアやケース等)はリーズナブルなものが多い中で貴社の商品は高級なラインだと感じました。今回の商品が生み出された考え方を教えて下さい。 近年、卓球業界は、他の業界と比べ過当競争化していると感じています。また、他業界では、SDGsを指標とする動きが進んでいる中において、業界もどのように対応していくかの段階と考えます。 卓球用品が安く購入できることは、良いことであることを否定しませんが、それが長期的に持続可能な業界とECO社会の一員としての愛好者に利益をもたらすかを主題とした議論が必要なのではないでしょうか? 多くの卓球愛好者が安価な商品を購入することで、競技に参加しやすくなることは必要だと思っています。 一方で、今後も長く卓球を続けていかれる「卓球愛好家」の方々には、デニムという自然素材のジーンズのように、経年劣化がその味となり、愛着をもつことができる価値あるものを提供できたらと考えました。 化学素材の海外製品が多い中、高価だが日本の技術で作られたもの、日本人の心のこもったものを使うことで、卓球愛好家の皆様の卓球ライフをより大切なものにしていただけたらと思います。 今回のラケットケースは、メーカーの日本の自社工場で作成することで、製造背景と手法と素材において、完全に既存商品とは差別化されています。「一品のデニムラケットケース」を作ることができる会社自体が、BOBSONの他にはないのではないかと考えています。 ③このラケットケースは、どんな方に、どの様に使ってほしいですか? 一言でいえば、デニム好きな方である「卓球愛好家」の方に長く使っていただきたいです。 良いデニムは、長く使用することで経年劣化による味が出てくるように、競技という枠を超えて、多くの友人や競技者の方々ともに卓球を愛好してきた味のある方が使用しただければ、作り手としては、本望です。 卓球が生活に与えてくれる恩恵、趣味を楽しむ喜び、そこに目がいくのは、卓球にある種の感謝の念を感じられる方だと思います。そういった方々が10年、20年と長きにわたって使って下されば嬉しいです。
バブル時代のジーンズと時代を作ったBOBSONと日本の技術革新

バブル時代のジーンズと時代を作ったBOBSONと日本の技術革新

BOBSON トップメッセージ尾崎博志の「突き抜ける信念」Vol.3 私の父・尾崎宗次郎(2代目社長)は第2次世界大戦で昭和18年に出征し、「インパール作戦」で知られる激戦地ビルマ(現ミャンマー)に赴きました。 生きて帰れた理由は、機械や電気関係の技術を持っていたため通信部隊に入れたからだと、のちに本人が自伝に記しています。 その自伝には、終戦後の現地で父が隊員の「洋服づくり」を上官に提案したことが書かれています。ボロボロに破れ果てた隊員の服を見かねてのことでした。 父は出征前、兄・尾崎小太郎(マルオ被服創業者/のちのBIG- JOHN創業者)の仕事を手伝っていたので、洋服の作り方を多少知っていたようです。 イギリス軍の兵士から譲り受けたテント用の幕布を使い、ナイフで生地を裁断し、見本を作って隊員たちに作り方を指導したところ、見事に針と糸を使って服を仕上げていく「日本人の器用さに驚いた」と語っています。 当時の職人が残したBOBSONの財産 BOBSONはベルボトムジーンズのヒット以降、ジェンダーレスなブランドイメージが先行し、特に女性に人気があったんです。 レディスは流行に左右されやすいですよね。今年はベルボトムでも、来年はスリムになるなど流行が移ろいやすく、スカートやサロペットなどアイテムの種類も多い。 同じデザイン・同じ仕様の定番商品を作り続けるのと比べると、毎年、違う商品を開発して作らなければならないので経営的にはロスが多くなります。 BOBSONがブランドとして急成長できたのは、そういう困難があったからではないかと思います。 その頃のBOBSONは100%自社工場で自前のモノづくりをしていました。そのため、クイックな生産対応が可能でした。 市場ニーズへの対応がどこよりも速いので、シーズン性の強いアイテムでも納期ギリギリまで引きつけて、「売れる」商品を効率的に生産することができたのです。 それを支えたのが、日本の縫製力です。 愛媛県の吉田工場と山口県の山口工場を筆頭に、全国に10以上の生産拠点を持ち、1工場あたりジーンズを年間100万本単位で生産していたと思います。 各工場で同じ品質の製品を生産するために欠かせないものが、前回の記事でも少しお見せしたBOBSONの「仕様書」です。 とにかく細かく、数字や縫製の注意点まできちんと詳細に書き込んであり、下請けの工場さんの中には「BOBSONの仕様書がウチのモノづくりの元になっている」とおっしゃる取引先もあります。 「仕様書」を見れば、その通りに縫製できる日本人の器用さ、技術の高さがBOBSONを一流ブランドに押し上げてくれました。 「仕様書」はBOBSONの財産です。当時の職人たちに、よくぞ残してくれたと感謝したいです。 BOBSONが起こした流通革命 ジーンズや学生服を作る以前の当社は、作業服を製造販売していました。 その頃の販売手法は「訪問販売」です。社員が直接、商品をお客様のところに持参して商談していました。そのため、全国に営業エリアを広げる中で、各地に営業拠点を設けるようになりました。 1969年にジーンズ生産を始めた後は、デヴィジョンシステムを導入しました。 この場合のデヴィジョンは、支店のことです。沖縄全島が日本に返還された1972年には、北海道から沖縄までの主要なエリアに支店を設け、全国販売網を一気に確立しました。 これまで信頼関係を築いてきた各地の営業拠点に、当社が出資し、法人化を図り、特約契約のある支店としたのです。 これによってアパレルメーカーのBOBSONが全国販売ネットの力を身につけたことは、他社メーカーにマネのできない、大きな強みになりました。 当時のファッション業界は、卸売りが基本でしたから、どこのメーカーも地域の卸問屋に商品を納入し、卸問屋が各エリアの百貨店などに販売していました。 つまり、販路についても、売り方についても、地方の卸問屋に全て「おまかせ」という形で商売していたのです。 しかし、デヴィジョンシステムを確立することで、BOBSONは卸問屋を通さず、小売業者に直接、自社商品を売ることができるようになりました。 卸業者を通さないことで、私たちメーカーも、販売先の小売業者も利益を上乗せできます。 それだけでなく、卸問屋とは違って当社の商品だけを販売することで担当者との意思疎通が図りやすく、ブランドのイメージも、思いも、世界観も、全て意のままに展開できたのです。 当時、国内ではダイエーやイトーヨーカドーなどの総合スーパーがものすごい勢いで全国展開を進めていました。 このような小売業界の流通革命に、いち早く対応し、全国各地に支店を設けるという大英断を下したのは、当時の経営陣であった尾崎利春(財務担当)・尾崎宗次郎(生産担当)・吉田清一(販売担当)の3人でした。三位一体の経営がBOBSONを一躍、ジーンズのトップブランドに進化させました。 バブル時代をつくった「04ジーンズ」 1969年より前のこと、BOBSONが初めて試作したジーンズは、あまりにもゴワゴワしていて硬く、とてもはけるようなものではなかったそうです。そのため、糊剤などの付着物を落とす洗い加工という手法が編み出されました。 国産ジーンズは、出発地点から技術革新とともに進化を遂げてきたのです。 とくに、ジーンズ文化の成長過程にあった80年代・90年代は、ペダルプッシャーとか、カットオフとか、ストーンウォッシュとか、今までなかったようなデザインや技術、素材が生まれては、次々と商品化されていきました。 大量生産・大量消費、作れば売れるという時代。 毎シーズン、商品のデザインを変えるのはもちろん、色から素材から全ての要素を変えていました。「DCブランド」と呼ばれたデザイナージーンズも大盛況でした。 中でも、部分的にブリーチする「ケミカルウォッシュ」が世界的に大流行! いま40代後半以上の方なら、必ず1本は持っていたのではないでしょうか。 この勢いが、90年代の「04ジーンズ」の開発につながります。 BOBSONが世界に初めて送り出した「04ジーンズ」の開発者は、BOBSONの社員だった故・古澤カズオさん。この方は、秀でた才能と才覚を持つ素晴らしい方でした。 レーヨン素材を含んだ「04ジーンズ」は、非常に軽くて柔らかいジーンズです。もう、一挙に何千万本という莫大な本数のジーンズが売れに売れました。 「ジーンズは硬くて重いもの」という常識を打ち破り、世界のジーンズカルチャーを180度変えてしまった。私たちも世の中の雰囲気が一変したような体験をしました。 もともとBOBSONは、特にレディスで強かったこともあり、以前から「軽くて柔らかい生地が求められるんじゃないか」という思いを、ずっと開発者は持ち続けていたんですね。 そこで、古澤さんがある素材…アパレル素材ではないんですが、その素材と出あった時に「アパレルで使ってみよう!」とひらめいたみたいなんです。 今思えば、とても度胸が良かったですよね。 売り上げがずっと右肩上がりだったバブル期ならでは、とも言えるでしょう。 現在、BOBSONは70〜80年代の定番商品の再生に挑戦していますが、それと同時に、新しい素材や加工など、いろんな技術も開発しています。 近年、繊維素材の開発が急速に進んでいます。クール素材も、軽量ジーンズも、保温性の高いジーンズも、BOBSONは早期に取り入れました。 加工技術では、世界のどこにも負けない自信があります。 「定番×革新」を追求し続けて 現在は、スポーツ素材を使った新商品開発も行い、スポーツ用のニット素材とデニム素材の融合技術も開発しました。 そういう、世の中にない新しい機能素材や技術ができれば、どんどん採用していきたいと思います。 前進するためには、定番と革新、どちらもクルマの両輪のように並行して進めていく必要があると考えているからです。 BOBSONは、新しいものをずっと追い求めてきた会社です。 「先取り・先駆け」が、初代の経営者から受け継いだDNA。 現状維持は結局、後退と同じだと自らを奮いたたせ、バランス感覚を大事にしながら常に先駆け、リスクを取って行動し、経営していきたいと思います。
【社長インタビュー】ジャパン・ジーンズの源流「BOBSON」の生成

【社長インタビュー】ジャパン・ジーンズの源流「BOBSON」の生成

BOBSON トップメッセージ五代目代表取締役 尾崎博志が語る「ボブソンの生成」 BOBSON(ボブソン)」というブランドは1969年に誕生しました。 今から、およそ半世紀前のことです。 【ブランド名の由来として、いろんなエピソードが伝わっているようですが、創業者の1人であり2代目社長にあたる私の父・尾崎宗次郎の話では、「Bサウンドは耳に残る」という、当時のマーケティングの影響が大きかったようです】 「BIGJOHN」「BettySmith」「BISON」「VICERER」「BLUEWAY」、岡山県・広島県発祥のブランドの多くが「Bサウンド」から始まっていますよね。 弊社の前身にあたる「山尾被服工業」は、1950年に設立されました。 初代社長は尾崎利春。私の父の兄、つまり叔父にあたります。 「サクラサンエー」という、いかにも日本らしいブランド名の学生服や、作業服の製造販売を手がけていました。 尾崎家は、もともと、香川県の荘内半島で半農半漁の生活をしていました。ところが、製紙工場が出す排水で海に汚染が広がり、この地区での漁業の将来性に不安を感じ、家・田畑・漁業権を全て売り払い、瀬戸内海を渡って真向かいの岡山県・児島に出てきたのです。昔から紡績と縫製が盛んな児島へ引っ越したことが、日本ジーンズの元祖となる「BOBSON」と「BIG JOHN」を生み出す偶然につながったのだと思います。 創業まもなく稼働ミシンは100台を超え、JIS表示認可工場となりました。 また、当時「安かろう 悪かろう」という日本のイメージを払拭するため、通産省が厳しく管理していた対米輸出の認可を得て輸出を行い、日本の対外収益に貢献。岡山県より表彰を得るなどして順調に業績を伸ばしていきました。 ところが、60年代後半になると、収益の大半を稼いでいた学生服に使用していたウール繊維よりも、強くて扱いやすく手間のかからない合成繊維が新たに開発されたのです。 当時、まだ会社の規模が小さかった弊社をはじめ、岡山県内の中小規模の学生服メーカー数社は、その新素材を入手できませんでした。 すると、あっという間にシェアは奪われ、大量の在庫を抱えることになってしまったのです。 設立まもない会社には、新しい業界に出ていくだけの資金的余裕はなく、既存の設備と技術を可能な限り利用して、新たな市場を開拓する以外に生き残る道はないですよね。 そこで、全社員一丸となり、起死回生を賭けて、“ジャパン・ジーンズ”の開発に飛び込んだのです。 戦前から続いた学生服やワークウェアを作っていた、誕生したばかりの中小企業が、社運を賭けて全く未開発の市場に向けて製品を作ることができたのは、若い会社だったからでしょう。 住み慣れた香川の地を離れた後、これが、二度目の賭けだったのかもしれません。 明日の“カッコいい”をつくる!BOBSONのジーンズを通じて日本を自由に。 ご存知のように、ジーンズはアメリカのカウボーイや労働者が身につけていたワークウェアでした。 ところが60年代になると、ボブ・ディランがジーンズをはいてステージに登場。彼の音楽とともに若者の間にジーンズが広がり、ファッションアイテムとして認識されていきました。 1969年には、伝説の野外音楽フェス『ウッドストック』が開かれ、「愛と自由と平和」を叫ぶジーンズ姿の若者で会場は熱気に包まれました。 まさに、BOBSONが誕生した年のことです。 当時、欧米の若者が熱狂していたジーンズ。 その中でも、アメリカ全土で巻き起こったヒッピームーブメントを象徴するファッションが「ロングヘア」と「ベルボトム」でした。 この勢いは凄かった。 「ベルボトム」は、ベルのように裾広がりのシルエットが特徴的なジーンズのこと。既存の特権階級社会や男性優位な価値観を否定するヒッピーの自由な精神を表していました。 この「ベルボトム」を日本の若者にイチはやく紹介したのがBOBSONです。 BOBSONは、70年代の世界最先端ジーンズファッションと若者カルチャーを発信する、オリジナルの「ミニブック」を発行しました。 日本全国のジーンズを取扱うショップの店頭で、ジーンズに興味のある方々がこれを手に取り、結果、ジーンズ文化を普及させたのでした。 現代にありがちな販促ツールのカタログではありません。 まず、ビジュアルがカッコいい。 そして、読みごたえのあるコンテンツ。 さらに、ファッションアイコンと呼ばれた有名人やミュージシャンなどがたくさん登場する紙面は、まさに自由と憧れの世界でした。同時に、BOBSONは日本の流通革命の波に呼応するように、1972年には全国販売網を確立させたのです。 北海道から九州まで、全国のチェーンストアにジーンズを納品できるディビジョン・システムを発足させました。 これによって、日本全国の若者がBOBSONのジーンズを入手できるようになり、彼らのライフスタイルやファッションも一変。 ジーンズ文化を切りひらいたBOBSONのベルボトムジーンズ「550」は大ヒットしました。 フォークやロック、パンクなどのミュージシャンはもちろん、ユニセックスなファッションに魅力を感じた当時の女の子たちの間でも大流行。 日本の女性が自分らしさを楽しみながら、スカートではなく男性と同じパンツスタイルで、男性と肩を並べてゲンキに、自由に街を歩ける時代がようやく幕を開けたのです。 「BOBSONのベルボトムを通じて、日本の女性を自由に。」なんて言い過ぎかもしれませんが、それくらいの情熱を持ってモノづくりをしていたことが、当時の仕様書(つくり方などを図や文章で細かく指示した書面)を見ると伝わってきます。  “あたりまえの美学”BOBSONクオリティ 70年代から80年代頃にBOBSONが発信してきたジーンズを、私たちは今、2020年代の新定番として復活させるべく挑戦を続けています。 それは、単なるヴィンテージとは違って、ちっとも古くさくない。 だけど、ノスタルジックな雰囲気や個性にあふれ、でも、どこか新鮮でピュアなエネルギーに満ちている。 そう、時代を超越するタイムレスなジーンズです。 親から子に受け継がれる確かな品質でありながらも、気取りのない、私どもにとっては“あたりまえ”のジーンズを“あたりまえ”に、適切な価格で販売していきたいと思います。 理由は「BOBSONって、こんなにカッコいいジーンズをつくってたんだ!」と若いみなさんに知ってもらいたいから? もちろん、正直そういう欲はあります(笑)。 でも、それだけじゃないんです。 ブランド草創期の定番をつくり直すことで、今なら当時の技術を、ギリギリ次の世代に継承することができるからです。 それが、日本のジーンズ界を牽引してきたBOBSONの使命だと思うのです。 日本の技術を受け継ぐ使命 「ジーンズの原点」を見つめ直した時、私は「これまで日本が進んできたモノづくりの道は、これでよかったのだろうか?」と、ふと疑問を感じたんですね。 実は、80年代から90年代にかけての大量生産時代に、ジーンズをつくる工程はガラリと様変わりしてしまいました。 いろんな種類のミシンが登場したんです。 どういうことかと言うと、流れ作業をさらに効率化するため、ジーンズを構成するパーツごとの専用ミシンが開発されました。 ポケット専用ミシンや裾専用ミシンなどです。 細分化され、半コンピュータ化したミシンは、一度設定してしまえば、あとはボタンを押すだけ。 スタッフの技術力に関わらず、一定のレベルで縫えてしまいます。 スピードは速く、生産効率もバツグン。 スタッフの熟練度に関係なく、誰がやってもある程度の商品が仕上がるのでロスも少なく、コストダウンにもつながります。 一方、スタッフの技術も上がらない為、応用が効かない技術者となり、過去からの貴重な技術と経験を次世代に受け継ぐことできないのです。 一定範囲の仕様による製品のコピーはできますが、応用ができないため、“らしさ”のある商品を生み出すことができないのです。 このように、SPAによる大量生産型ビジネスによって、近年、日本のメーカーが知恵と時間をかけて作ってきた商品の多くが、人件費の安い国へ生産場所を移していく流れが続いてきました。 「より多くのお客様へ、より安く、画一的な良い物を提供する」という姿勢は、それはそれで正しいと考えますし、世界の潮流を変えることは難しい。 ただ、できあがったジーンズは、まるっきり味のないモノになっています。 しかも、このままでは日本のメーカーが破壊されてしまう。 私は、そういう危機感を感じています。 昔は職人が、数種類のミシンを使い、知恵と技術を駆使しながら縫っていたんですね。 まっすぐ縫っていても多少、ゆがみがある。 だけど、それが「味」になってるんですよ。 人間の息づかいや手仕事の妙というか。 ジーンズ1本1本に、縫い手の個性が宿る感じでした。 現在の日本の生産現場の実情を考えた場合、同じことはできませんが、私たちはできる限り、“らしさ”のあるジーンズを作り続けることを考えています。 “らしさ”のあるジーンズを適価で 現在、BOBSONは、昔のような職人による生産ではなく、「ミニマスプロダクション」という生産体制を選択しています。       なぜなら、手間のかかる国内生産だから高価であるとするのは、50年以上ジーンズを作ってきたメーカーとしては「怠慢」と考えるからです。 そのため、生産コストを考慮し、海外での生産も行っています。 もちろん、今では少ない技術や仕様が必要な場合は、自社ならびに地場の協力工場と共同して生産します。 その場合、仕様そのものに手間がかかり、非常にコストが高くなってしまうリスクを回避するため、部分的に高効率なミシンも使用しています。 それでも、“らしさ”を失わないのは、私を含め当時からの熟練スタッフの存在があるからです。 このようにして考えられる限りの企業努力を行い、商品アイテムに“らしさ”を持たせ、それぞれの商品を適正価格により、適正量でムダなくお届けるすることが使命だと考えます。 「未来のヴィンテージ」を、 いま、BOBSONから! 現代を生きるお客様に愛され、飽きることなく長く履き続けていただけるような、価値あるジーンズを生み出すことができれば、それは「未来のヴィンテージ」となります。 BOBSONは、日本ジーンズの源流でもありますが、多数の画期的なジーンズを世に出してきた会社です。 そこで、ベルボトムをはじめ、70年代や80年代のバギーやブーツカット、ワイドパンツ、ストレート、スリム、カラージーンズなど、「定番」と呼ばれた商品を現代の感覚で、もう一度つくり直すことにより、技術だけでなく、「ジーンズのBOBSONらしさ」の魂やプライドもお見せできるよう、会社を進化させています。 これからも「過去を紐解き、未来を発明する」精神を持って、常に創造者であり、先駆者であることを理念として、より良いジーンズをお届けしていきたいと思います。
なぜ卓球なのか? BOBSONのパイオニア魂に迫る

なぜ卓球なのか? BOBSONのパイオニア魂に迫る

株式会社ボブソンホールディングスは、2018年に設立された卓球リーグ「岡山リベッツ」の最初の出資者であり、スポンサーでもあります。 当時は、まだプロ卓球ビジネスが成り立つかどうかなんて、まったく分かりませんでしたが、福原愛選手の活躍以降、少しずつ卓球が注目を浴びるようになってきていましたし、卓球ファンが増えつつあることを自身の肌で感じていました。 また、ちょうどその頃、私は「ファッショナブルな卓球の実業団チームを作り、業界に一石を投じたい」と考えていたのです。 熟考した結果、単独の企業でムーブメントを起こすよりも、全国規模のプロチーム、しかも世界で活躍するトップ選手たちの方が影響力は高いだろうと考え、「岡山リベッツ」を応援する決断をしたのです。 半世紀もジーンズを作ってきたジーンズメーカーBOBSONが、なぜ卓球なのか? その情熱の源は、BOBSONが受け継いできたパイオニア魂と、「アメーバ型の共創ブランド・メーカー」という経営スタイルにあります。 「ラージボール(新卓球)」の普及へ 2021年4月14日、株式会社ボブソンホールディングスは、株式会社ソフトアスリート「Soft Athlete Co., Ltd」(略称S.A.C)を設立いたしました。 新会社のミッションは、「個人レベルの市民スポーツ組織を自律的に持続成長が可能な組織とするための支援活動を現場レベルで行うこと」です。 その第1弾として「ラージボール(新卓球)」を採用しました。当面の活動目標は、ラージボールを硬式卓球と同様レベルにまで普及させることです。 ラージボールは「新卓球」とも呼ばれ、近年、シニア世代を中心に愛好者が急増している新しいスポーツです。人気の理由は、勝ち負けを超えた「心身の楽しさ」と「和気あいあい感」にあります。 「楽しい」という気持ちは、生きがいの原点だと思います。この点で、ラージボールは、絶対に普及すべき価値があると、私は確信しております。 好きになれるスポーツに出会い、それを通して多くの仲間とのコミュニケーションの場を得ることは、健康寿命をのばすことにつながります。 健康寿命をのばすことは「持続的な社会づくり」に不可欠な社会的課題の1つでもあります。 私たちはこの会社を、一時の利益追求ではなく、多くの問題に直面する「市民スポーツの持続的成長を阻害する課題の解決」に役立てます。道徳的な判断力を持って現場に入り、課題解決に取り組んでいく所存です。 人生100年時代のスポーツ「ラージボール」 ラージボールで使用される卓球台は通常の卓球台と同じです。ボールは、通常の卓球で使う硬式ボール(直径40mm・約2.7g)と比べて大きく軽いボール(直径44mm・2.2〜2.4g)を使用します。 ボールが大きくて軽いので、空気抵抗が強く、ボール速度が抑えられます。 ラケットのラバーは、回転のかかりにくい表ソフトラバーの1種類に制限されています。また、ネットは硬式ネットより、2センチ高くなります。 つまり、高いネットを境に、回転と速度が抑えられたボールを打ち合うため、ラリーが長く続くのです。そこが、プレーヤーにとってもオーディエンスにとっても楽しくなる秘密です。 このようなラージボールの特性上、身体の安全性が高いうえ、未経験の方にとっても参加ハードルが低く、子供も大人も高齢者も、上級者も初心者も、性別を問わず一緒にプレーできるというメリットがあります。 ラージボールを楽しむことで体力向上や筋力の低下予防にも役立ちますし、頭脳を使うスポーツなので、脳内の血流アップにより、認知症や心筋梗塞などの予防にも期待ができます。 また、1人ではできないスポーツですから、大会や練習会場において新しい「コミュニケーションの場」を作る役割も果たします。 ラージボールは、まさに人生100年時代の最適スポーツだと思います。 株式会社ソフトアスリートの名称には、「柔軟な発想力を持つ知的スポーツ選手でありたい」という願いが込められています。 共同代表の藤井洋子さんは、ラージボールの指導や大会の開催に尽力してこられた第一人者です。 株式会社ソフトアスリートは、これまで藤井さんが個人で続けてこられた活動を法人化させ、持続成長できる自律型組織としていく計画を実行します。 また、一部の人だけが経済的な負担を請け負うのではなく、共感いただけるボランティアやスポンサーを中心とした「草の根的な活動」により、全員参加型のローコストな仕組みを追求していきたいと思います。 そして、ラージボールの楽しさをもっとたくさんの人に伝え、ラージボールを普及させることで、より健康的な社会を作っていき、「全ての人のより楽しい人生に貢献したい」という夢をかなえることができたらと思います。 「ラージボール」を通じて 次世代カルチャーを生み出したい。 現在、世界や国内の各地では、マラソンやテニス、自転車、ヨットレースなど、さまざまな競技において、プロではないハイアマチュア選手や一般の市民プレーヤーが参加できる大会が開催されています。 参加者たちは、各地の大会に出場することを生きがいにしたり、共に競ったライバルと友情を育んだり、いろんな街を旅する喜びを味わい、豊かな人生を楽しんでおられます。そういう方々の活躍の場をどんどん広げていけるような大会を運営していきたいのです。 株式会社ソフトアスリートは、全国のいろんな地域でラージボールの大会を開催することにより、単なる競技としての楽しみに加え、参加する楽しさを提供できればいいなと思っています。 ラージボール大会を、たとえばファッショーや音楽フェスタ、グルメツアー、温泉卓球など楽しい要素を多彩に含んだイベント性の高いフェスと共同開催して地域の活性化につなげ、参加される方々の輪を広げて、多様性のある先進的な場にしてみたいと思います。 同時に、運営側の独りよがりな発想にならないよう、多様な参加者の方々にも経営に参加していただけるよう、「衆知の経営」を構築すべきと思っています。 ファッションで「楽しさ」は、もっと増幅する。 実は、私は中学から大学まで、ずっと卓球部に所属していました。 社会人になって30年弱の間、卓球から離れていましたが、娘が中学生になって卓球を始め、練習に付き合ったことをきっかけに再開。 それから町内の卓球大会に参加したり、地域の小学校の大会に出たりするようになり、現在は週2回・2時間程度練習しています。 私が学生の頃は「卓球は根暗なスポーツ」と言われていて(笑) 今のようなカッコいいイメージがなかったんですね。 当時より自分が好きなスポーツが、ネガティブイメージを持たれることに悲憤を感じておりました。 「何かを変えないといけない。明るく自由でオープンな環境と卓球関係者が生涯生活できる仕事があることは絶対必要」と思い続けてきました。 そのために、私たちのようなアパレルメーカーが卓球市場に入って、新しい風を起こしたい、卓球界のカンフル剤になりたいと考えました。 「卓球を明るくするには、ファッション性を変える必要がある」と言うのは簡単です。しかし、実際は困難の連続でした。 BOBSONは2009年から、ダンスやゴルフなどのウエアを生産販売してきたので、スポーツウェアの基本的ノウハウは持っていましたが、単なるスポーツウェアを作ったところで全然おもしろくありません。 全部デニムで作ってしまうと、スポーツに必要とされる機能を十分果たせません。 ジーンズブランドのBOBSONだからできる、ユニークな商品を生み出したい。 どこのメーカーも今まで作ったことがない、まだ世の中に存在しないアイテムを開発したい! そう考えた私たちは、社内で「ああでもない、こうでもない」と話し合いながら考え、最終的にみんなで出した結論は、デニムとポリエステルの融合でした。 「共創」がBOBSONのDNA デニムとポリエステルを融合させるというアイデアにたどり着いたものの、技術的にクリアしなければならない課題は山積みでした。 ジーンズは、綿100%のデニム生地。スポーツ素材といえば、ポリエステル100%。 糸の太さも、強度も、織り方も、縫製に使用するミシン、洗い方法も、何もかも違う生地をどうすれば融合させられるのか。 しかも、まったく縮率と組成が違う素材を、デニム用のミシンで縫製することは、大変難しいのです。 異素材を合わせたスポーツウェアは、ハードな使用や洗濯にも耐えられるのか? 手作業で1点1点作るので大変手間で、国内縫製のコスト面での難しさもありました。 長年の経験と知恵と技術をもって、試行錯誤を重ね、試作を作り続けること2年。 2020年頃から、まずは私たちのイメージしたようなデニムベースのスポーツウェアをようやく作れるようになりました。 そして2021年、まだらにブリーチ加工をしたデニム生地をライン状にあしらったスポーツウェアが完成したのです。 この商品が誕生した時、思わず「面白い!」と感動したんですよ。 デニムライン部分は、手作業の洗い加工の為、雰囲気や柄の出方、色味などが1点1点全部違うので、同じように見えても1点も同じウェアはありません。 こんなスポーツウェア、世界のどこにもない。しかも、それを「ほしい」と言ってもらえ、チームウェアに採用された時はメーカー冥利に尽きましたね。 最近は、選手やファンの方々から「こういう商品がほしい」とユーザーの貴重な声を直接、聞けるようになりました。 すでに、具体的なご要望もたくさんいただいているので、今は、それらを最優先で形にしていきたいと思います。 このラージボール大会には、どのスポーツ業界にも無いウェアを優先的に提案していきたいです。ひいては卓球業界の全体のファッション性を高め、「自己表現」を着ることで明るく楽しいプレー時間が過ごせるようになれば、たいへんうれしいですね。 お洒落なシニア女性卓球愛好者は増えていますから、日本の男性卓球愛好者は、もっとファションを意識すべきです。ミックスダブルスの時に、パートナーの女性から「プレーでもファションでも」喜んでもらえるようになるべきだろうと思います。 卓球は「全力疾走しながらチェスをするような競技」だと言われます。 会社経営も同じなんですね。 走りながら考え、実践し、修正していく。 常に周りは移り変わっていくし、1つの素材やアイテムの登場によってシーンがいきなり大転換することもあります。 だから、最も変化のめまぐるしいファッション業界で会社を経営するなら、過去と未来を意識しなければなりません。 一方で、遊びと余裕がないと楽しいものは、生み出せません。 これからも楽しいものづくりを続け、新しい卓球ファッションを提案できたら最高だと思っています。 最後に、弊社の経営コンセプトは、ジーンズブランドメーカーであることをアンカーとし、地場産業との補完関係を優先する「スモールマスプロダクションによる適価」を基本としています。また、製品開発に重点を置き、業界を超えてオリジナル性を生み出していく「共創」を行います。 バランスシート重視のキャッシュフロー経営を常とし、ステークホルダー共々安心して一緒に未来に向かっていくことを目指していきます。 【予約注文】デニムラインジャージパンツ 【予約注文】デニムラインジャージトップス 【予約注文】デニムラインジャージハーフパンツ
BOBSON中国、新店舗オープン

BOBSON中国、新店舗オープン

中国でのBOBSONショップの5号店の重慶店が5月2日にオープンしました。 月末には上海LALAPORT店の出店も予定しております。 この上海LALAPORT店で合計6店舗になりました。中国で日本の技術が高く評価されております。 中国BOBSON店舗のお近くにお住まいのかたは是非、ご来店くださいませ。